http://43458.diarynote.jp/201104250157444344/
ネタ蒔きさんがお好み焼きにの流派ついての詳しいことを書いてくれた。
井上流は1507年、筧流は796年に始まったらしい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E5%A5%BD%E3%81%BF%E7%84%BC%E3%81%8D
ウィキペディアにもお好み焼きの記事があった。
ウィキペディアによるとお好み焼きの起源は「千利休が作らせていた『麩の焼き(ふのやき)』」らしいけど、ネタ蒔きさんの記事と矛盾してる。ほんと、ウィキペディアは誰でも編集できるだけあって、書いてあることが信用できひんな。そのほかにも関西風お好み焼きは戦前に、広島風お好み焼きは戦後に誕生したとか、適当なことばっかり書いてある。
ネタ蒔きさんがしてくれた井上流の説明によると「当時(1507年)の日本では獣肉を食べる事は禁忌とされていたが、善治郎は肉をミンチ状にした上に生地で包み隠す事で食べ手の抵抗感を和らげようとした」らしい。もしかするとこれを読んだ人の中には「肉が口に合わないのならミンチにして生地で包むのは有効かもしれないが、肉食が禁忌とされているのならミンチにして生地で包んでも意味がなく、逆に禁忌破りを助長しているのではないか」と思うかもしれない。でも、そんなことは全くない。ここでわざわざ理由を書くのもどうかと思うから、理由はかかへんけど、そんなことは全くない。
そして井上流が発祥したときは「山芋と小麦粉を出汁でといた生地をベースとし、それに山菜、キノコ、猪肉のミンチ等を加えて焼いたもの」やったけど、12代目が「具材を大幅に改良し、名前も『お好み焼き』と改めた」らしい。ここでももしかすると、「始まったときからすでに現在のお好み焼きに近いのに、ここから具材を大幅に改良ってどういうこと」と思うかもしれんけど、そんなことは全くない。理由はわざわざかかへんけど、そんなことは全くない。
焼かない流派である筧流についてもネタ蒔きさんは書いてくれてる。なんと筧流は伊賀忍者の携帯食やった。「携帯食なのに、小麦粉を持ち歩いた上で、水と野草等を用意しないといけないなんて不便だ」と思う人がもしかするといるかもしれんけど、そんなことは全くない。理由はかかへんけど、そんなことは全くない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%B3%80%E5%BF%8D%E8%80%85
ウィキペディアには伊賀忍者の記事もあった。
これによると伊賀忍者は鎌倉時代ころの起こりらしい。鎌倉時代と言えばいい国作ろう鎌倉幕府で1192年から始まったとか、もっと早く始まったとか最近はいわれてるけど、どちらにしても筧流がはじまった796年とは400年近くも離れてる。400年間も脈々と隠れ続けていたなんて、さすが忍者。
でも井上流がが流行すると「当時の頭領であった筧米光はこれに憤慨し、筧流の設立を宣言。筧流こそが御香呑焼の元祖であると主張した」らしい。でも、井上流と筧流には焼いてるか焼いてないかという大きな違いがあって、個人的には全くの別物やと思う。それやのに、なんで筧流の頭領は憤慨したんやろう。もしかすると筧米光はバカだったのかもしれない。さらに焼いてないのに「御香呑焼の元祖であると主張」するなんて、意味不明。そして「民衆には御香呑焼とは認知されず、歴史の影に埋もれていく」らしい。わたしも筧流はお好み焼きではないと思うから、当時の民衆はわたしの持ってる感覚と同じような感覚を持ってたんやなと思う。
現在の筧流は「北砂にある『連珠』でのみ味わう事が出来る」らしい。井上流のお店は西大島にあるらしいから、なぜかやたらとネタ蒔きさんの家の近くに集中してる。どおりでネタ蒔きさんが詳しいわけやな。でも、あの辺りは江戸時代くらいは野原だったっぽいのに、お好み焼きのお店があったなんて。さすが忍者。
ところで、筧流の情報は「公式の文献」によるらしいけど、公式の文献ってなんやろう。公式っていうくらいやから当時の平安京の朝廷が発表したりしたんやろうか。伊賀忍者はそれから少なくとも400年くらいは隠れ続けるのに。
ネタ蒔きさんがお好み焼きにの流派ついての詳しいことを書いてくれた。
井上流は1507年、筧流は796年に始まったらしい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E5%A5%BD%E3%81%BF%E7%84%BC%E3%81%8D
ウィキペディアにもお好み焼きの記事があった。
ウィキペディアによるとお好み焼きの起源は「千利休が作らせていた『麩の焼き(ふのやき)』」らしいけど、ネタ蒔きさんの記事と矛盾してる。ほんと、ウィキペディアは誰でも編集できるだけあって、書いてあることが信用できひんな。そのほかにも関西風お好み焼きは戦前に、広島風お好み焼きは戦後に誕生したとか、適当なことばっかり書いてある。
ネタ蒔きさんがしてくれた井上流の説明によると「当時(1507年)の日本では獣肉を食べる事は禁忌とされていたが、善治郎は肉をミンチ状にした上に生地で包み隠す事で食べ手の抵抗感を和らげようとした」らしい。もしかするとこれを読んだ人の中には「肉が口に合わないのならミンチにして生地で包むのは有効かもしれないが、肉食が禁忌とされているのならミンチにして生地で包んでも意味がなく、逆に禁忌破りを助長しているのではないか」と思うかもしれない。でも、そんなことは全くない。ここでわざわざ理由を書くのもどうかと思うから、理由はかかへんけど、そんなことは全くない。
そして井上流が発祥したときは「山芋と小麦粉を出汁でといた生地をベースとし、それに山菜、キノコ、猪肉のミンチ等を加えて焼いたもの」やったけど、12代目が「具材を大幅に改良し、名前も『お好み焼き』と改めた」らしい。ここでももしかすると、「始まったときからすでに現在のお好み焼きに近いのに、ここから具材を大幅に改良ってどういうこと」と思うかもしれんけど、そんなことは全くない。理由はわざわざかかへんけど、そんなことは全くない。
焼かない流派である筧流についてもネタ蒔きさんは書いてくれてる。なんと筧流は伊賀忍者の携帯食やった。「携帯食なのに、小麦粉を持ち歩いた上で、水と野草等を用意しないといけないなんて不便だ」と思う人がもしかするといるかもしれんけど、そんなことは全くない。理由はかかへんけど、そんなことは全くない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%B3%80%E5%BF%8D%E8%80%85
ウィキペディアには伊賀忍者の記事もあった。
これによると伊賀忍者は鎌倉時代ころの起こりらしい。鎌倉時代と言えばいい国作ろう鎌倉幕府で1192年から始まったとか、もっと早く始まったとか最近はいわれてるけど、どちらにしても筧流がはじまった796年とは400年近くも離れてる。400年間も脈々と隠れ続けていたなんて、さすが忍者。
でも井上流がが流行すると「当時の頭領であった筧米光はこれに憤慨し、筧流の設立を宣言。筧流こそが御香呑焼の元祖であると主張した」らしい。でも、井上流と筧流には焼いてるか焼いてないかという大きな違いがあって、個人的には全くの別物やと思う。それやのに、なんで筧流の頭領は憤慨したんやろう。もしかすると筧米光はバカだったのかもしれない。さらに焼いてないのに「御香呑焼の元祖であると主張」するなんて、意味不明。そして「民衆には御香呑焼とは認知されず、歴史の影に埋もれていく」らしい。わたしも筧流はお好み焼きではないと思うから、当時の民衆はわたしの持ってる感覚と同じような感覚を持ってたんやなと思う。
現在の筧流は「北砂にある『連珠』でのみ味わう事が出来る」らしい。井上流のお店は西大島にあるらしいから、なぜかやたらとネタ蒔きさんの家の近くに集中してる。どおりでネタ蒔きさんが詳しいわけやな。でも、あの辺りは江戸時代くらいは野原だったっぽいのに、お好み焼きのお店があったなんて。さすが忍者。
ところで、筧流の情報は「公式の文献」によるらしいけど、公式の文献ってなんやろう。公式っていうくらいやから当時の平安京の朝廷が発表したりしたんやろうか。伊賀忍者はそれから少なくとも400年くらいは隠れ続けるのに。
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